渋谷の地形は起伏に富んでいるため坂道が非常に多い地域です。坂の数は30以上あると言われております。その坂の中でも最も有名であるであろう「道玄坂」について今回は深掘りしていきます。まずは道玄坂の位置確認をしながら登っていきましょう。
1979年に東急により建設された109がある交差点の名前が”道玄坂下”となっており、ここから道玄坂が始まります。坂を登って行くと左右には飲食店を中心に無数のビルが所狭しと立ち並びます。
坂の中盤右側にはしぶや百軒店(ひゃっけんだな)がございます。”店”を”だな”と呼ぶあたりに歴史を感じますね。夜な夜な大人が行き交う繁華街としてユニークなスポットとなっています。
坂の上層部左側にはマークシティの入り口がございます。1994年より君臨するマークシティは築年数が20年以上経過した今でも複合型商業施設として存在感を放ち続けます。
そしてさらに上層部に行くと右手にアパホテル、正面に玉川通り(246)、空中には首都高速がございます。こちらの交差点の名前が”道玄坂上”となりここが道玄坂の頂上ということになります。数々の有名スポットがある道玄坂ですがそれぞれの詳しいお話はシブテナで紹介していこうと計画中です。。。
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広く世の中の人に認知される道玄坂ですがその名前の由来は諸説あるようです。代表的な説を二つご紹介します。
【説1】大和田太郎道玄という和田義盛一族の残党の子孫がこの辺りで山賊となった。山賊としてあまりにも怖れられるようになった大和田太郎道玄が現れる坂として有名となり道玄坂と名づけられた。坂を歩く人を脅して金品を奪い取る山賊がいたという物騒な説。
【説2】大和田太郎道玄が道玄庵という庵を坂の途中に建てた。庵とは”あん”と呼んだり”いおり”と呼んだりしますが僧侶などが執務に用いる質素な建物のことを指す。この道玄庵が有名となり道玄坂と名づけられた。こちらは僧侶が佇む坂だという縁起の良い説。
1つ目では山賊が出現する坂として、2つ目では僧侶が携わった坂として説が唱えられています。真逆の要素のように感じる2つの説ではありますが、大和田太郎道玄が関わった坂であるということは確かなようです。あくまでも個人的な感想ではありますが、この道玄坂という言葉の響きが悪そうにも聞こえるし、ありがたい響きにも聞こえるのはこんな二つの説が背景にあるからかもしれません。
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かつての道玄坂は江戸から大山街道(東京と神奈川を結ぶ道)に続く道として機能していました。大山街道に向かう人たちが買い物をするための店が出来始めたことがこの坂の商売の始まりだったようです。渋谷駅が開通した1885年を境に本格的に発展していったようです。1923年の関東大震災で渋谷はほとんど被害がなかったようです。焼け野原となった下町からの一流店舗が道玄坂の百軒店に移店したことが道玄坂の繁栄の大きな転機だったそうです。しかし1945年の空襲の際には渋谷も例外ではなく焼失してしまったようです。
皆様ご存知の通り戦後、日本は目覚しく発展を遂げることとなるのですがその時に発生した産物が”闇市”でした。特に道玄坂はこの闇市でひしめきあったそうです。現在の109の裏あたりに存在した恋文横丁なんかは渋谷の名物として賑わっていたようでその印象的な名前より今もなお碑があります。この恋文横丁についてはまた別の機会で特集をしようと思います。
闇市は勿論規制の対象となる文化でしたので消滅していくわけではありますが現代の道玄坂の賑わいの起因となっていることは間違いなさそうです。その後幾度となく開発を重ね今では様々な人種が昼夜を問わず上り下りする日本で最も有名な坂の一つとなったそうです。