渋谷の地で長くご商売をされている方にお話を聞く、シブテナインタビュー。そんなインタビュー先で、びっくりするほど貴重な資料を拝見することが多々あります。
せっかくだから、そこも紹介したい!ということで「過ぎ来し方の渋谷」。
今回は先日お伺いしたセンター街にある中華料理「白鳳」さんの、株式会社高木本社の資料からご紹介します。
この写真は昭和7年頃に撮影したとみられる渋谷のセンター街。どのあたりだかわかりますか?じつはここ、現在のTSUTAYAがあるあたり、センター街の入口です。Aと表記のある部分が「駅前食堂新道」と名付けられたアーケード街となり、今のセンター街に引き継がれているそうです。
当時は初任給が13円、瓶ビール35銭、カレーライスが8銭だったそう。資料には「当時子どもだった私は、お小遣いを5銭貰えたら鬼の首を取った気分だった」との可愛らしい記載がありました。
ちょうどこの頃、渋谷のシンボル「ハチ公」が渋谷を放浪して、二代目社長の高木さんや先日お話をお伺いしたパーラー西村の創業者、正次郎さんはあったことがあるそうです。インタビューでは度々話題になるハチ公は大正12年生まれ、昭和10年に亡くなったとされていますが、12年の生涯で多くの人に愛された犬でしたね。
ハチ公がご主人を待っていた渋谷駅からは、銀座築地行きと神田須田町行きの電車があり、運賃は10銭であったと記載されています。
その後、昭和16年から戦争が始まります。B29での空襲は昭和20年3月10日東京深川・下町方面、昭和20年4月13日東京山手方面、15日東京・横浜・川崎方面だったようです。夜11時過ぎからB29が160機(アメリカ側は330機と発表)が、深夜3時間にわたり攻撃してきたと言います。当時、資料元である高木本社で働いていた中山さんは「宇田川の前の東郷神社にも爆弾が落ち、その時はみんなで防空壕にいました。怖さを紛らわせるために歌などを唄いました。その日は雪が降って山手線も止まりました。」と話されていました。
戦争から復興した、昭和27年頃の地図。なんとなく今の渋谷の感じに近づいている気がします。センター街入口には食堂、あとキャピタル座という映画館があったようです。センター街を進むと行き止まりになっているようで、まだまだ細かい個人店が多い時代でした。ここから109や西武、東急などができていくのかと思うと、ワクワクする地図ですね。
現在のセンター街の入口や駅周辺もここ数年でだいぶ印象が変わりました。これから先も変わり続けていく渋谷。
いつか「センター街ってあったね〜」なんて言われる日がくるのでしょうか。