JR渋谷駅を出て、お馴染みのハチ公前から見えてくる道玄坂。入り口には若者ファッションのシンボルである109があり、多くの人で賑わうエリア。
実はこの辺りはかつて民家と店舗が混在し、商店街のような形で栄えていた商業エリアでした。ビルが立ち並ぶ今の景観からは少し想像が難しいですが、そんな商店街で幼少期を過ごし、人生のほとんどの時間をこの街で過ごした阿部さん。大正時代から道玄坂で鰻屋を営む「うなぎ花菱」の三代目店主です。
「昔はこの辺りは一階が店舗で二階が住居という木造戸建てが多く、それなりに栄えた商店街でしたよ。子どももたくさんいてね、よく商店街のアーケードの上に登ったりもしたものです。」
「大正時代に『うなぎ食堂』というお店を祖父の兄が始めたそうです。それを祖父が引継ぎ『花菱』になりました。そこから今の花菱ビルのある道玄坂に拠点を移したそうです。昭和初期の戦時中は店を兵隊の休憩場所として明け渡すよう言われ、昭和20年の東京大空襲で燃えてしまいました。その疎開の際にみんなが身一つで移動する中、祖母がタレの壺を持って行ったそうです。だからうちの鰻のタレは命のように大切に受け継がれた味なんですよ。」
「あたたかき鰻を食ひて帰りくる 道玄坂に月おし照れり」 (斎藤茂吉)
その後、今の花菱ビルに建て替えられた1990年は若者のアメカジブームの真っ只中。その中で渋カジと呼ばれる渋谷カジュアルファッションが一世を風靡し、日本初のストリートファッションを確立。渋谷の若者が流行の最先端となりました。
「子どもの頃の渋谷は、料亭などもありちょっと大人な街だと思っていましたが、109やPARCOができていく姿を目の当たりにして、あぁ渋谷が変わっていく!と感じました。そこからどんどん若者も増えていきましたね。」
そんな時代の流れもあり、渋谷はファーストフード店など若者向けの安価な飲食店が増えますが、大正末の創業から変わらぬ花菱の味は、多くの著名人に愛されてきました。特に文豪 斉藤茂吉は一日に二度も訪れたこともあるほど。彼の歌に出てくる「あたたかき鰻」はもちろん花菱の鰻です。政界の重鎮や大物演歌歌手、最近はあの有名俳優とモデルのご夫婦なんかも訪れているそうです。
見えるお客様を大切にしたい
変わらぬ味で多くの人に愛される花菱も、さすがにコロナには苦戦したそう。鰻屋は一年間の売り上げの半分を7月8月が占めます。けれど、ここ二年はその売り上げも伸びず。今も宴会などが難しいので、まだまだコロナの打撃を受けています。
「売り上げが苦しいのはあるけれど、やっぱり今流行の委託型の出前には踏み切れなくてね。鰻はどうしても値段が張るし、ちゃんと届かなかったら責任の所在が難しいから。。けれどうちは今だからこそ、まずは見えるお客様を大切にしようって。配達は責任が取れるタクシー配送だけは取り入れています。」
「うちのビルの店子さんも苦しい人が多かったようで、家賃の交渉などはできる限り寄り添える努力をしました。こういう時こそ助け合いが必要だからね。渋谷という街は、若者が変えた街で、若者が作っていく街。私たちは新しい人たちを快く受け入れなければいけないし、彼らと一緒にもっと素晴らしい渋谷に変えていきたいと僕は思っています。」
老舗にしか出せない、絶品鰻
花菱の鰻は、毎日活きた鰻を捌くところから始まり、注文が入ってから焼くので提供までは40分ほどの時間を要します。すべては16歳からこの道に入ったという職人さんの腕と、花菱の門外不出の秘伝のタレが命。生の鰻をじっくりと小骨を焼き切るよう、何度もひっくり返します。皮にいい焼き色が付いたら、一度蒸すのが関東風。蒸すことで身が膨らみ、ふわふわになります。そこから秘伝のタレを付けて焼くのですが、この工程がタレを育てるのだとか。鰻の身にタレが絡むのはもちろん、タレにも旨味が混ざる。こうやって何十年も引き継がれながら、旨味を増していくんですね。これが老舗にしか出せない、絶品の鰻。
柔らかい身はフワフワで、口の中でとろけるような舌触り。しっかりと鰻の白身を感じた後にタレの甘さが追いかけてくるようで、タレや甘さでごまかさない丁寧な仕事を感じることができます。カリッと香ばしい皮のコゲがまた乙で、ちょうど良い硬さのご飯とよく絡みます。
「鰻はお祝い事など、ちょっと背伸びして食べるもの。特別な日に花菱を選んでいただいて、来てくれた人の笑顔を引き出せるような店でいたいですね。」
道玄坂中腹あたり、渋谷の喧騒のなか変わらずそこにあり続ける「うなぎ花菱」。文豪に愛され、渋谷の街に愛された鰻は、この場所に三代住み続ける家族が守り抜く味でした。