創始者・一柳富次さんのこと
1967年以来、半世紀以上にわたって宇田川町で事業をされている柳光商事株式会社の一柳弘子さんにお話を伺いました。
柳光商事の創始者は一柳弘子さんの旦那さま一柳富次さん(故人)。
鎌倉で生まれて、小学生のころから、お父様が営む「魚善」という魚屋をお手伝いされていたそうです。
小学校の卒業式の時に、校長先生が話された「どんな仕事でもよいので日本一を目指しなさい」という言葉が忘れられず、何か事業を興すことを常に考えて育ったと言います。
2つの大学を卒業し、建築と政治経済を学んだという勉強家であり、大学時代に過ごした寮には、その後、田中角栄の秘書になった早坂茂三なども暮らしており、将来についての野望を語り合うような日々を過ごしていたそうです。
そんな中、中古自動車関連の営業の仕事をしながら、かつての同志から共同でガスを使うための器具のニーズがあると情報を得て、ガスメーター器具関連の事業を興しました。
今から60年以上も前に、今でいうパラレルワークを実践していたというので驚きです。
1960年代といえば、日本は高度成長期の真っ只中、当時、東京都庁は丸の内にありましたが、今後、新宿・渋谷・池袋を中心として発展させるという都市計画を聞き、渋谷の発展を確信し、1967年、渋谷区宇田川町に現在の柳光ビル本館を建てました。その後、すぐ横に柳光ビル別館を、さらに宇田川柳光ビルを建てました。
音楽と食の街として発展
このエリアは、渋谷センター街を抜けたところ。すぐ先にあるNHK放送センターや、渋谷区役所があるエリアは、ワシントンハイツと呼ばれるアメリカ軍用住宅があったエリアで、このエリアもアメリカの文化が入り混じっているようなエリアだったようです。
東急ハンズ前から神南小学校の前を通り、渋谷税務署に抜けるこの道は「無国籍通り」とも言われています。そして、柳光ビルの前を通って、井の頭通りに抜ける階段がある坂道は「シスコ坂」と呼ばれています。
その坂の名前の由来になったのが、柳光ビルの中に店舗を構えていたレコード店「CISCO」(シスコインターナショナル)です。1970年代から輸入レコードを販売して一世を風靡し、輸入レコードを買い求める若者たちの列が大通りまで続くような光景が見られたといいます。
近くには、タワーレコード(今は移転)や、マンハッタンレコードもあり、宇田川エリアが音楽の町として発展してきました。ニューヨークでも宇田川発の音楽文化は知られるようになりました。
インターネットの普及とともにレコード産業は低迷し、CISCOも2008年に幕を閉じましたが、今でも柳光ビル本館にはレコード店が3店舗あります。
その後、飲食店が増えるだろうと思い、ビルの1階部分にテラスを作るなどをして、飲食店が入居することになり、その後この一帯は音楽と食が融合した独特の文化を継承した街になっています。
渋谷の街に思うこと
最後に、一柳さんに「渋谷をどう思う?」と聞いたところ、「前に向かって生きるエネルギーを感じる街」だと即答いただきました。
渋谷と一口で言っても、宇田川町エリアや公園通り、センター街、道玄坂など、エリアごとに独特の文化があり、それがうまく融合している。それぞれが歩いていける距離にあり、開かれた街になっていて、そこに暮らす人、遊びにくる人、働く人、多様な人たちが、自由に行き交うことができる街だと言います。
100年に一度といわれる渋谷の再開発・・・先陣を切るように2012年に渋谷ヒカリエが誕生し、渋谷ストリームや渋谷スクランブルスクエア・・・多様な施設がオープンしていますが、再開発は2027年まで続きます。
今後、この宇田川の街が開発されていくとしても、これまでの歴史や文化を踏まえて、新たなコンセプトを持った宇田川町として誕生してほしいと語っていました。